スターバックスへあまり行かなくなった。という話をスターバックスで書いている。
私が写真を撮るまで窓のスクリーンを下ろすのを待っていたらしく、書こうとしている内容を知られたらどうしようと余計なことを考えてしまい、ものすごく気まずかった。
札幌でフリーランスとして働いていた15年あまり、スタバはまさに「サードプレイス」であった。特に40を過ぎて札幌駅の徒歩圏に引っ越してからは週に一度は行っていた記憶がある。
はっきり言ってコーヒーは美味しくない。特にソイラテの豆乳はずっと寝かせた味がして最悪だ。
MacBookを広げてドヤりたいわけでもない。確かにMacBookを持っていき個人の作業をすることはあったが、人にドヤるほど社会的地位は高くない。
ではなぜ通っていたかというと、自己治療の一環である。私は常に薬を飲み心を落ち着けていないとキレやすくなり社会的に死ぬ病にかかっている。かと言って家に引きこもると死にたくなる。自分が死ぬか社会的に死ぬかである。
空調が整い、適度に混んでいるが客の声が反響しにくく、調度も照明もうるさくないスタバはちょうどよい場所だった。ただ目的もなく1時間半ほどぼんやりするのである。こうしてブログを書くこともあった。
結婚して豊橋へ引っ越してから、そのバランスが変わった。豊橋、というか愛知県は喫茶店がインフラである。スタバだけが選択肢ではなく、静かで落ち着けて、コーヒーも食事もうまい店がゴロゴロある。
ちょうどスタバではモバイルオーダーとフラペチーノマーケティングが始まり、自宅から近いスタバは昼間以外は複雑なカスタマイズと盛り盛りのフラペチーノを待つ陽キャで異常に混むようになった。
混みすぎている店は心の健康に良くない。待つ人々のフラストレーション、大きすぎる話し声、店員に手間を取らせまいという冒頭のような無意味な気遣いが私の持病を確実に悪化させる。既に自己治療ができなくなっていたスターバックスに、私は良いところを感じなくなったのだった。
ずっと一人だった自宅には、夫が帰ってくる。彼は一見普通だがその実は仙人である。何者にも流されず常に穏やかであり、毎日の些細なことに喜びを感じる。
実はなにも感じていなくて今の感情が平常運転なのかもしれないし、ある日突然同じリズムで私の前からいなくなるのかもしれないが、少なくとも私の健康には良い。気の合う人の気配がある12畳の日当たりの良い居間で、普通の焼き菓子をつまみながら飲むコーヒーが、私にとって一番落ち着くようになったのだった。
スタバを失う代わりに、何かを得たのならそれでいいのかもしれない。まあでも、空いていればこうして店に飛び込むこともまだまだあるのだが。ブランディングの頂点とも言い切れる、美しいサイレンのロゴを見ると、やっぱり心が引き締まる。